島脳神経内科
 
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1983〜1984年頃 患者さんの脳脊髄液でカテコールアミンを測っていた頃
1985〜1986年頃 抗パーキンソン病薬を投与したラット脳でカテコールアミンを測っていた頃
1989〜1990年頃 パーキンソン病ねずみに副腎移植治療をしていた頃
1990〜1991年頃 パーキンソン病ねずみに胎児脳の黒質移植をしていた頃
1991〜1993年頃 脳の治療のために神経細胞を増やそうとしていた頃
1993〜1994年頃 神経幹細胞研究にギブアップした頃
1995〜1997年頃 ドーパ剤のドーパミン神経細胞毒性を確認した頃
             (深夜に夢中でカメラのシャッターを切った)
最近の活動 平成15年11月29日 長崎県パーキンソン病治療座談会

  
1983〜1984年頃  患者さんの脳脊髄液でカテコールアミンを測っていたころ
 大学院時代の後半はパーキンソン病や脊髄小脳変性症の患者さんの脳脊髄液を集めて、その中のカテコールアミンという物質を高速液体クロマトという装置(HPLC)で測っていました。
パーキンソン病の患者さんでどうして薬が効きにくくなるのか調べたいというのが目的でした。パーキンソン病の患者さんの脳で不足しているのがドーパミンというカテコールアミンの一種なのです。患者さんの脳脊髄液を集めに大学から他の病院まで腰椎穿刺をしに行っていました。髄液を集めるのに、先輩の先生方には大変お世話になりました。連絡があって液体窒素の小型のタンクをぶら下げて行っていたものですから、保健所からきた消毒の係りの人であるかのように勘違いされたこともあります。日本神経学会総会にデータを出すために、4日間全く寝ずに食事もろくにとらずに徹夜で髄液の処理をしていたところ、5日目には目の前が真っ白になって、何も見えなくなりました。朝から夕方までは大学の付属病院で診療をし、研究は夜や深夜にしかできなかったのですから、仕方ありません。見えなくなったのはほんの数分間ですぐに治ったのですが、これでは早死にすると思って、以後そんな無茶はしないようにしました。このころ日本神経学会総会最終日の全員が集まるシンポジウムでこのテーマが取り上げられたとき、シンポジストの先生に向かって若気の至りで「そのデータは変じゃないですか」と質問してしまいました。二度目に手を上げて質問しようとしたときには無視されました(手を上げたのが見えなかったのかもしれませんが)。
  
1985〜1986年頃 抗パーキンソン病薬を投与したラット脳でカテコールアミンを測っていたころ
 患者さんの脳脊髄液の検査では結論が出なかったので、ラットに毎日朝晩パーキンソン病の薬(ドーパ剤やドーパミンアゴニスト)を長期間飲ませ、脳のドーパミン代謝がどう変わるのかを調べていました。測り方は患者さんの脳脊髄液を測っていたのと同じ方法です。脳を取り出して測ったり、透析膜を脳の中に埋め込んで環流しながら測ったりしていました。このころ順天堂大学の水野教授が長崎に講演で見えたときに前座をおおせつかりました。このときはちょうどパーキンソン病の薬がドーパ剤の単剤から、ドーパ剤にドーパが脳に入る前に血液中で壊されるのを防ぐための薬を混ぜた合剤に変わったあとだったので、長崎市の数十人の患者さんについて単剤から合剤に切り替える際に、どのような比率がちょうどよかったかなどという臨床データを示して前座を何とかつとめました。ラットで測ったデータはハンブルグで開催された世界神経学会で発表し、博士論文となりました。
  
1989〜1990年頃 パーキンソン病ねずみに副腎移植治療をしていた頃
 パーキンソン病の研究に役立たないかと、当時パーキンソン病への副腎移植の基礎研究で有名だったアメリカのワシントンDCにあるアメリカ国立衛生研究所(NIH)のビル・フリード(William J. Freed)の研究室に留学しました。どうせ留学するなら一番いいところへという思いでしたが、コネも何にもなかったので、彼の論文で住所を調べて手紙を書き、断わられながらも3回目の手紙でOKしてもらって留学できたわけです。
パーキンソン病患者さんへの副腎移植研究のルーツのような研究室でしたが、結局私が行った一度に多くのパーキンソン病モデルラットを使った研究で、その治療効果が限られることがはっきりし、この分野の研究にとどめをさした格好となってしまいました。ラットの脳に定位脳手術をしてパーキンソン病モデルラットを作るのですが、この手術の成功率が私の場合には75〜100%でしたが、同じ研究室のアメリカ人の成功率は数%でした。パーキンソン病ラット作りとその脳への移植と行動分析に明け暮れていた時期です。元ボクシング世界チャンピオンのモハメド・アリがパーキンソン病にかかり、副腎移植手術を受けると言う記事が日本の新聞にまで載ったこともありましたが、この頃を境に患者さんへの副腎移植療法の効果に疑問が持たれ、次第にされなくなっていきました。
  
1990〜1991年頃 パーキンソン病ねずみに胎児脳の黒質移植をしていた頃
 パーキンソン病への副腎移植は下火となり、胎児脳からの神経移植療法がされるようになっていました。アメリカの移植チームが中国まで行って手術をしていました。胎児脳と言っても、パーキンソン病で神経細胞が減っている黒質という小さな部分のみ使うので、患者さん1人の手術に胎児数人分の脳が必要で、一人っ子政策の中国で胎児の脳が手に入りやすかったのです。実際にパーキンソン病ラットの脳にラット胎児脳の黒質を移植しますと、移植した黒質から移植された脳に向かってぐんぐん神経細胞が伸びて行きます(写真参照)。副腎移植の時とは大違いです。これなら確かに効くだろうと実感しました。ただこの研究をしているときにアメリカ人の大学生が実習に来ていて、私の助手として手伝ってくれることになりました。ただ最終的に学生さんが担当した部分のデータが使えないような状況だったので、論文にする際にデータがかなり減ってしまったのが残念でした。この治療法はその後、やはり胎児脳を使うと言う倫理的な問題が壁となって、あまり発展はしませんでした。

図3

図中のG部分が移植されたラット脳黒質(図2の赤色部分)
移植されたパーキンソン病ラット脳の線条体(図のS部分)へ向かって伸びたドーパミン神経からの神経線維が白く光って見える。

図4

図3の線条体に移植黒質から伸びてきた神経線維で白く光るドーパミンの蛍光。
  
1991〜1993年頃 脳の治療のために神経細胞を増やそうとしていた頃
 胎児脳を使うことの有効性は実感したものの、実際にはそれに変わるものが他にないかと考えていました。
そのころ細胞に癌遺伝子を組み込んで増やすと言う研究がされているのを知り、昼休みに机にすわってその論文を読んでいると、そばにボスのフリードが昼食のりんごをかじりながらやってきて、その研究をしたいのかと聞いてきました。イエスと答えると、その後フリードは自分の部屋にこもってあちこち電話をかけ、癌遺伝子の温度感受性変異株を使って培養ドーパミン神経細胞を増やすという研究のスタートがばたばたと決まりました。
これは37度の培養環境では細胞が癌細胞のようにどんどん増えるが、温度を39度にすると増殖が止まるというものです。そこでうまく神経細胞にすることができれば、大量にドーパミン神経細胞を手に入れることができて、パーキンソン病の研究やひょっとしたら治療にも使えるのではないかというものです。ラットの脳の温度は39度程度なので好都合だったのです。
専用の助手をつけてもらい、毎日毎日何十匹というラット胎児脳から黒質を顕微鏡で見ながら取り出し培養し、それに温度感受性癌遺伝子を組み込んだウイルスを感染させるということをしていました。ただし、同じような研究が世界中のいくつかでされましたが、かなりの労力を使った挙句、結局誰も成功しませんでした。ただ、培養を繰り返しているうちに1回だけ、長い突起を持つ神経細胞としか思えない細胞のコロニー(細胞のかたまり)が取れたことがありました。このときはついにやったかと興奮しましたが、すぐに死滅してしまいました。証拠こそありませんが、このコロニーの形は今でもはっきりと思い出せます。ですから、条件さえよければこの方法でも増える神経細胞が取れたのではないかと、今でも信じています。

培養ドーパミン神経細胞
これが1個のドーパミン神経細胞です
  
1993〜1994年頃 神経幹細胞研究にギブアップした頃
 1992年のクリスマスに帰国しました。帰国後は国立療養所川棚病院で神経内科医長として働き、毎晩深夜の3時頃まで培養ドーパミン神経細胞で研究を続けていました。
 1993年に前年に神経幹細胞を発見してセンセーションをおこしたWeiss博士が東京での講演のため来日したときには、その前座をおおせつかりました。講演のあとの懇親会で、私がドーパミン神経細胞を培養している特殊な条件が、神経幹細胞の培養条件と似ていたものですから、しばらく神経幹細胞の研究をしてみることにしました。当時は神経幹細胞からどうやって神経細胞に分化させるかという条件がいろいろ試行錯誤されていた時期で、その後到底1人ではできない内容になっていったので、ついにはギブアップしてしまいました。このころ神経栄養因子のGDNFを使って研究していたのですが、当時日本の研究者でこれを手に入れていた人はほとんどなく、学会で報告したときに、どうしてこれを先生がもっているんですかと言われたこともありました。実はヒトGDNFを薬として売り出そうとしていたアメリカの会社に手紙を書いたら、大きな発砲スチロールに保冷剤や温度計と一緒に何重にも梱包して航空便で送ってくれたんです。このころ神経幹細胞が将来神経疾患の治療に使えるかもしれないという話をしたら、夢みたいなことを言うなと言われていました。今ではそんなことを言う人もいなくなったくらい研究は進んでいますから、うれしい限りです。
  
1990〜1991年頃 パーキンソン病ねずみに胎児脳の黒質移植をしていた頃
 神経幹細胞研究をギブアップしたあとは、パーキンソン病の治療に使うドーパ剤が、ドーパミン神経細胞に毒性があるのではないかという、パーキンソン病のフリーラジカル仮説に関する研究をしていました。
当時本当にドーパミン神経細胞でフリーラジカルが増えるという証拠はなかったのです。ドーパミン神経の培養を得意としていた私は、なんとかその証拠が得られないかと思い、フリーラジカルが増えると細胞の中で赤く光ると言う試薬を使って、証拠をさがそうとしていました。夕方までは長崎北病院で診療をし、仕事が済んでから毎晩と週末に長崎大学の当時は原爆資料センターと呼んでいた施設の病理部の一室に間借りして細々と研究を続けていました。しかしせっかく注文した試薬がアメリカから届くと、すでに試薬が酸化されて悪くなっているというのを何回か繰り返した後、やっと深夜の2時ごろにドーパミン神経細胞だけが赤く光るのを見たときには、夢中で蛍光顕微鏡のシャッターを切りました(写真)。死にかけているドーパミン神経細胞でよけいに強く光っていますから、フリーラジカル仮説の動かぬ証拠です。
 このあとは、間借りしていた病理部の先生が転勤になってしまったので、長崎大学医療技術短大の学生用生化学実験室を使わせてもらって、引き続きドーパミン神経細胞の培養で一酸化窒素(NO)やパーキンソン病の治療薬であるドーパミンアゴニストの研究をやはり細々と続けていました。その途中で大村市立病院へ転勤になったので、大学に通うことができなくなり、中断したままになって現在に至っています。

培養神経細胞

こげ茶色に染まっているのがドーパミン神経細胞。

その周辺にうっすら見えるのがその他の神経細胞。

上の写真で青く光っているのがドーパミン神経細胞。

下の写真で赤く光っているのは、細胞の中のフリーラジカル。

培養液にドーパ剤を入れると、ドーパミン神経細胞だけにフリーラジカルが見える。
  
平成15年11月29日 長崎県パーキンソン病治療座談会
長崎県パーキンソン病治療座談会

 「EBMに基づいたドパミンアゴニストの治療の実際」というタイトルで、パーキンソン病に対する最近の内服治療の考え方や、リハビリの有効性などに関して、ゲストを交えて座談会を行いました。
Copyright Takashima Neurology Clinic 2003 / 高島脳神経内科 長崎県大村市池田2丁目304-1